【関東・甲信越ブロック】10年遅れのキャリア(2023年2月21日掲載) 音声読み上げ
山梨大学大学院 総合研究部 工学域基礎教育センター 准教授 井上 久美
2010年8月に39歳でバイオセンサの研究で学位を取得した私は、そこから本格的にアカデミアとしてのキャリアを進むことになりました。スタートから遅れていましたので、競争社会のアカデミアで勝たなければならない、という気負いもなく、そのときそのときに自分に何ができるか、と考えて研究や研究以外のことを進めてきました。そして結果的に、2020年8月から山梨大学で研究室を主宰するに至り、充実した毎日を過ごしています。そこで本稿では、回り道をしながらもアカデミアに進んだキャリアについて、n=1ですが紹介し、キャリア形成に迷う若い方へのエールにしたいと思います。結論としては、アカデミアへの道に限らず、周りの方に感謝し、社会に貢献する気持ちを忘れなければ、そのときにやれること、やりたいと思うことを選択して進んで大丈夫です。
私は1995年に京都大学農学部を卒業しましたが、この時すでに結婚して1歳半の娘がいました。紙面に限りがあって学生結婚について書けないのが残念ですが、結果的に若いうちに子育てを終えることができたため、山梨大学に着任したときには3人の子供は皆、家を離れており、単身赴任にも支障がありませんでした。大学卒業後は夫のいる仙台に行き、花の専業主婦生活、と考えていましたが、昼間は子供と家で二人きり、という生活は想像していたのとは全く違って、とてもつらいものでした。ハローワークへ行き、技術や研究に関連する職に就きたいといったところ、食品製造の組合を紹介してもらいました。そして、午前中の分析業務をこなせば、午後は研究でも何でも好きにしてくれていい、という四大卒には破格の条件で採用してもらいました。保育園は無認可でしたがとてもよくしてくださり、安心して子供を預けることができました。また、職場はコンサバティブな環境で、上司から「おなごがこどもをほっぽって仕事して」と言われた時には、お母さんと二人きりでいるばかりが子供にとって幸せとは限らないよ、と思いましたが、いずれにせよ、子育てしながら働きやすい環境でした。子育てと仕事と両方あったからこそ、両方ができたと思います。
しかし、9年が過ぎてくると、四大卒で研究のようなことを一人で進めるには限界があることを感じ、東北大学の門をたたきました。最初は、修士に入って、と思っていましたが、同居していた義理の母から「学生なんかになったら、あなた、子供のことを放り出してそっちに夢中になるでしょう」と言われて、それもその通りと思い、実験補助員として採用してもらうことになりました。義理の母は2010年ころからアルツハイマーの症状が出て、震災を挟み、2015年の秋に亡くなりました。「小1の壁」をあまり意識せずに仕事を続けられたのは、この義理の母のおかげでした。私は東北大学環境科学研究科の末永智一先生のご指導の下、実験補助員をしながら、2010年8月に学位を取得しました。2013年からはプロジェクト雇用の助教、その後、講師、准教授となり、2つ目のプロジェクトでは研究リーダー補佐として研究推進課とともにプロジェクト運営を行う仕事の方を主に、研究や教育にも取り組ませていただきました。プロジェクト運営の仕事は、研究を進めてキャリアを積むという目的に対してマイナスに思えることですので、そのようなキャリア形成に拘っていなかった私だったからこそできたことだったように思います。実際には、助教・准教授クラスでは通常経験できないような、世界のトップクラスの先生方との研究のディスカッションや、大学理事、JSTや文部科学省の方などとの意見交換などに参加させていただくことができ、それが今のキャリアにつながっています。諸葛孔明の誡子書の一節「無欲でなければ志は立たず、 穏やかでなければ道は遠い」を実感するところです。その続きの「学問は静から、才能は学から生まれる。学ぶことで才能が開花する。志がなければ学問の完成はない。」にはまだまだ遠いですが。