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【北海道ブロック】三人の子どもの母親の女性研究者がいま思うこと(2021年11月15日掲載) 音声読み上げ


室蘭工業大学 ひと文化系領域 教授 松本 ますみ

室蘭工業大学に務めて7年がたちました。以前は、新潟県内の私立大学に16年務めておりました。私は、20代で子ども3人授かり、子育てしながら30代で、修士号、博士号をとり、40歳で前任校の専任の仕事を得ました。子育て中はまるで、際限なくいくつも皿回しをしながら綱渡りという怒涛の毎日でしたが、「仕事」と子育ての両立の苦労については他の方が書かれると思うので、ここでは割愛します。

子どもたちは現在、40歳、38歳、35歳です。手を離れた、と言いたいのですが、そうでもありません。長女は、精神障害者保健福祉手帳をもっています。精神疾患が長女に出たのは21歳の時です。診断名は当時うつ病でした。「うつは心の風邪」という言葉を私も信じており、彼女もなんとか服薬で切り抜けていました。当時、夫は関西の大学勤務で、新潟の家をほとんど不在にしていました。彼女は小康状態を得、修士課程を経て、東京で仕事を得ました。しかし、たびたび発病しては、新潟の実家で休む、ということを繰り返し、それを、フルタイム勤務の私が帰宅後見守る、という形でした。

彼女は36歳の時、新潟市で里帰り出産しました。里帰りといっても新潟の家にいるのは夫だけです。当時、私は北海道、娘の外国人のパートナーは東京で仕事と、居住地は3か所。私が週末を利用し飛行機で、娘のパートナーは新幹線で身重の娘の様子を見に行くという生活でした。無事出産後数か月で彼女の病気が重篤となり、緊急入院、そこで「双極性障害」とわかりました。私が職場の介護休業の制度を利用して休み、赤ん坊を子守しながら、病院を見舞う、という毎日が始まりました。

 私の夫は70歳で脳の手術をうけ、要支援1認定を受け家事がこなせず、それが娘の不眠と不安を増長させ病状を悪化させたようです。ただ、夫の名誉のために言っておくと、親しい人がそばにいることは精神科医の言葉で「目薬」といって、患者に安心感を与えるそうです。娘のパートナーは日本語ができないので日本人主治医の説明の内容を把握できるのは私だけ。双方が母語でない英語での私と娘のパートナーとの異文化コミュニケーションは困難を極めました。私が仕事を辞め孫の守りに専念することも考えました。

 娘は結局2か月入院し、退院。東京で専門病院に通院、投薬治療を受けながら、障害者手帳をもらい、こどもは未満児で保育園に優先的に入れてもらい、在宅勤務の多いパートナーと3人で暮らしています。私の勤務校の保健管理センターの精神科医には、私と娘の親子共倒れにならなくてよかった、となぐさめの言葉をもらいました。とても多いのだそうです。

前後して、金沢で一人暮らしの母が転倒骨折、入退院を繰り返しつつ、介護施設はフルコース体験しました。母が2年前95歳で亡くなるまで4年間、金沢に主に週末を利用して月2回ぐらいのペースで飛行機で通いました。週末は介護と学会、合間をぬって海外出張もこなしていました。長女の入院と時期的に重なった時もあります。

母を見送り、実家を処分し、人生の三度目の関門を過ぎた、というところです。一回目は子育て、二回目は娘の介護、三度目は親の介護です。これから夫の介護がありそうです。論文執筆、授業準備・授業など「仕事」は、自分の努力次第ですし、締め切り、学期終了という終わりがあります。私にとってこれら「仕事」は三度の終わりの見えない関門に比べて、そんなに困難なものではありませんでした。

 日本の社会制度は、緊急の時に迅速に昼間動ける有能な専業主婦が一家に一人いる、という前提で設計されています。私は周囲と制度に恵まれて、遠距離介護でも仕事をやめずになんとか三つの関門を越えました。再生産、子育て、家事と介護が、仕事をもつ女性に重くのしかかっています。女性がケア役割を一身に担うという現状が解決されないと女性の社会進出は進まず、責任ある立場の女性も増えず、少子化も止まらないと深く実感する定年退職1年半前の感慨です。


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