【東京ブロック】一介の女子学生が研究を20年続けてみた話(2022年1月24日掲載) 音声読み上げなし
電気通信大学 大学院情報理工学研究科 准教授 田仲 真紀子
今は化学が専門ですが、高校時代はサイエンス全般に魅力を感じ、物理も生物も数学も好きでした。大学受験では不本意な結果となり将来への展望を持てないまま進学しましたが、研究室での研究に没頭しました。水溶液中のミクロンサイズのエマルション液滴にレーザーを当てると、液滴が膨張と収縮を繰り返しながら進む運動を発見して解析し、そのメカニズムについて夢の中でも考えていました。
博士前期課程の後は普通に就職するのだと思っていました。当時所属していた理学部化学科では、私の学年で女子学生が3分の1ほど、さらに一つ下の学年では半数以上と聞くほどで、大半がそのまま大学院に進学しましたが、女性教員はごく僅かで、研究主宰者(PI)もいませんでした。大学教員は卓越した天才でもないと目指せない職だと思っていました。しかし当時は就職氷河期の底にあるような時代で、就職先も何十社受けても決まりません。男子学生には来る説明会の連絡すら来ないこともありました。悩みましたが、もうやりたいことに挑戦して自由に生きたらよいのではないかという心境に至り、一生かけて研究を続けたいとの気持ちも固まり、研究分野を変更して博士後期課程へ進みました。研究室も変わりましたので、他の人の3倍努力するつもりでしたが、進学先は日付が変わっても大半が残っているような猛者揃いのとある有名ラボで、頑張ったものの私の努力はせいぜい周りの1.2倍程度だったかと思います(でも限界)。日曜に決行される発表練習会には驚きました。過酷でありつつも恵まれた環境で鍛えられ、博士号を取ったあとは、1年半アメリカで研究生活を送り、帰国半年後に郡山市の日本大学に移り、その後は筑波大学に異動しました。どの場所も非常に思い出深いです。
いつも目の前のことに精一杯で、自分の立場に危機感を覚える余裕もなく、また研究に専念しながらもいつでも異動できる職は気楽でもあり、つい8年以上もポスドクを続けてしまいました。現所属のテニュアトラック助教に採用され、独立した研究室と立ち上げ費用をいただいた時は、とても嬉しかったです。いまは条件によってさまざまに形を変えるDNAの特性を調べています。丸い液滴になったDNAを眺めていると、学生の頃に毎日見ていたエマルション液滴を思い出します。
学部の同級生だった夫とはお互いの博士号取得後に結婚しました。引っ越しが多く、子供たちは0歳から卒園までにそれぞれ4つの保育園に通うことになりました。できれば家族一緒に住みたいところですが難しく、出張もあまりできないので、学会やセミナーが昨年から軒並みオンラインになったことには助かりました。現在も週末に家事と育児の手伝いで片道2時間以上かけて来てくれながらも、第一線で成果を出し続ける夫のことは、とても尊敬しています。
博士後期課程への進学を決めた時には、自分の将来はまったく予想できませんでした。特に目立たない一介の女子学生でしかなかった私には、研究者を目指すことはかなりの覚悟をした選択でしたが、それでも「研究を続ける」ことにこんなに障害があるとは予想していませんでした。普通ならここで辞める、と思った出来事は幾つも起こりましたが、いつの間にか思ったより先へ来ていました。応援してくれる家族にも、出会えた人々にも恵まれたのだと思います。
少なくとも化学の研究分野では、女性研究者は令和の時代になっても思いのほか少ししか増えていないと感じています。研究は自身を支えるものでもありますが、その研究を続けるために、研究能力だけでなく開拓者の才覚も同時に問われる状況は酷なものだと思っています。もうどの道を選んでもゲームオーバーしかないような迷路にいると感じたら、従順な優等生であり続けている場合ではないです。怪我をしてでも壁を壊して外に出なくては、生き残れる可能性も見えてこないかもしれません。私たちには、予定調和ではない新しい未来を作ることができるのだと信じるしかないです。