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【関東・甲信越ブロック】先覚者はつらいよ 夫からの金言篇(2022年2月18日掲載) 音声読み上げ


自治医科大学 医学部 環境予防医学講座 教授 市原 佐保子

男性・女性を意識させられるのは社会に出てからです。忘れっぽくて、子供の時の記憶がほとんどないですが、小学生の時は、整列する際は男女並列で背の順に並んでいたと思われます(写真で推測するのみ)。中学生の時は、時々開かれるホームルームで出席番号順に席に着いていたので覚えていますが、クラスの出席番号は、男女混ぜ合わせて、あいうえお順でした。高校生の時は、クラスの出席番号が男子のあいうえお順から始まり、次に女子のあいうえお順でした。ですから、整列する際は、男子が前で女子が後ろでした。今考えると、中学校の学区が市内でも有数の文教地区に存在していたため、進歩的な考え方の下、教育が実施されていたのかもしれません。しかし、当時は、この中学と高校における出席番号順における男女の扱いに関し、何の気にも留めなかったというのが事実です。

その後も、大学を卒業するまで、男性女性を意識することなく生活していました。実際は、中学生の時はオスカルと呼ばれ(世代の人は意味がわかるでしょう)、背が高く、ガシガシ歩く(陸上部員でした。関係ないけど)ので、女子と2人で騒いでいると、人前でイチャイチャするなと言いたげな目で睨まれるような状態であり、自分自身が見た目にも性別を意識しない位置にいたような気がします(今でも?)。

大学を卒業し、2年間の研修医を経て、循環器内科医として働きだしました。今では、医学部の男女比率は大学によっては1:1くらいになりましたが、当時の医学部は1学年に女性は1割くらいしかいない時代です。その中でも、女性の循環器内科医は稀有な存在でした。医師は、1年目でも、10年以上のベテランでも、基本的に同じ仕事をします。だから、違和感があるかもしれませんが、患者さんから上下関係がわからないよう、医師同士でも〇〇先生と呼び合うわけです。週に1回、病棟の全患者さんを回診する業務がありました。3次救急病院でしたので、急性心筋梗塞患者の入院が多く、当時はリハビリを含め1か月ほど入院する人が多かったので、多くの病棟患者とは顔見知りになります。数か月経ったころ、ふと気が付いたことがあります。自分はほぼすべての病棟患者さんに「女医さん」と呼ばれていました。男性医師は、すべて(同期も含め)〇〇先生と呼ばれています。外来担当している患者さんは、自分の名前を確実に知っているはずなのに、その患者さんも名前を呼ばず、すべて「女医さん」です。なるほど、私は女性医師の代表なんだ。私の評価が、女性医師の今後の評価につながるんだと、気が引き締まった瞬間でした。医学部で女性教授が占める割合は今でも1割に満たないくらいでしょうか。ですので、この思いは今でも継続しています。

現在は、環境予防医学を専門とし、環境が及ぼす生体影響を研究しています。しかし、自分の置かれた社会的立場をすべて「環境」のせいにするのはいただけません。私は、高校生の時くらいから、「運と勘だけで生きている!」と言われてきました。確かに自分は運が良いし、勘が恐ろしくさえていると思います。ただ、これを真面目に分析すると、一つの意見だけに耳を傾けず、いろいろな情報を得たうえで、周りをよく観察し、いつでもエンジンをかけられる準備をしているということです(言い過ぎ~)。しかし、順風満帆な研究人生を歩んできたわけではありません。医学部で女性が教員になることはハードルが高かったです。一般病院で臨床医をしながら大学の客員研究員として研究を続け、他学部で大学教員になったのは40歳間際です。それからも(同じ)研究を継続し、教授として医学部に戻ってきました。苦しい立場であったとき、夫が言いました。「ブレずに真摯にやり続ければ、それをどこかで見ている人がいて、いつかは絶対手を差し伸べてくれる。だから、そのままやり続けることが大事だ。」この言葉を若い人に申し送ります。


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