【関東・甲信越ブロック】研究者になった「ぼく」が、大学の世界で思うこと(2024年3月29日掲載) 音声読み上げなし
筑波大学 教学マネジメント室 講師 稲永 由紀
思い起こせば、幼い頃から気の強い子でした。ゲームで負けることに耐えられないので、今でも対戦型のゲームを避けています。性別と言えば男女の2分法しかなかった時代に、「ボーイッシュ」の典型のような子どもでした。「連れション」でないと恥ずかしいという、女子特有の「群れる」感覚について行けず、中学に上がった頃からは女でも男でもない中性的な存在でありたいと願い、「私(あたし)」の代わりに「ぼく」という言葉を使って自分を語るようになりました。大学教員になってもしばらくは授業で「ぼくはね、」と口をついてでていたようで、そのことをインターネットの授業評価サイトかなにかに書き込まれたこともあります。学生はよく見ているものです。
音楽が好きで、作編曲もしていました。そうして感性を磨いた(?)「ぼく」でしたが、2番目に好きなことを仕事にすべく学術研究者を志しました。学術研究は意外と感性勝負の世界ですが、基本は「食うか食われるか」の世界。上/下、支配する/されるという思考様式に強く支配される宿命を持つと言えます。ところが、大学院時代までを過ごした九州では男尊女卑の思想が根強く、これにシニオリティが加われば、競争原理はたちまち「シニア×男性」vs「ジュニア×女性」となって表出されることになります。大学教員だった父からは「指導教員から雑巾で顔を拭かれてもイエスと言え」と励まされ、地方学会で会ったシニアの男性教授からは「女性は子育てとか介護とかですぐ仕事に穴を空けるから採用が難しいんよ」と軽く言われたりもしました。負けん気が強く中性的な存在でありたいと願った過敏な「ぼく」はいつしか、逆らうと就職が無くなるという恐れに負け、気がつけば、絶えず空気を読んで無難にその場を切り抜けようとする萎縮の感覚が身を蝕んでいました。あの時期を乗り切れたのは、少ないながらも支えてくれた人たちがいてくれたお陰です。
ヒトが人になる過程に関心があって大学院の門をたたきましたが、縁あって今は高等教育、まさに自分がいま身を置いている世界が研究対象になりました。かつて、高校卒業直後で社会人経験のない未熟な若者ばかりを学生として迎えた大学は、今では様々な背景を持つ人々を学生として受入れ、学習者主体の考え方が進み、多様な背景に合った学生支援が目指されています。職業志向の強い教育プログラムも増え、学術研究とは異なる世界でキャリアを積んだ人々が次々と大学教員として参入するなど、教員の背景も多様になりました。そこで必要なのは共生や協働の感覚であり、ダイバーシティを支える感覚こそが教育の深化を生み出す時代になりました。他方、研究者が多く集う大学という組織は、共同体を示すファカルティ(教授団)という言葉はあれど、必然的に競争原理から逃れられない宿命を負っています。競争原理に適合的な人々が管理職として組織運営を担う時、たとえ属性が多様になったとしても見た目が「多様」になるだけで内実は結局以前と変わらない、という身も蓋もない話になっても、そんなにおかしくはないはずです。
座談会などで無視できない「弱者」への配慮を演出するその裏で、取るに足らない「弱者」は見て見ぬふりをする。もしもこれが大学のダイバーシティの行き着く先なら、大学はもはやイノベーションの源泉ではなく、単なるオワコンに成り下がることでしょう。ただし、大学の長い歴史の中では、オワコンになりかけた大学が社会的要請に反応して再生を遂げるというストーリーが、何世紀の単位で繰り返されています。学習者主体の教育機関としての大学と、競争原理が支配する研究機関としての大学。ダイバーシティの旗印の下で、水と油を調和させて宿命を壊し、進化を遂げることは本当にできるのか? 研究者として、働く当事者として、答えを探す旅はしばらく続きます。中性的な「ぼく」という感覚がもしかしたら、こんなところで役に立つのかも知れない、と思いながら。